『時計じかけのオレンジ』からみる芸術と暴力の関係

最近取った授業でスタンリー・キューブリックの作品についての分析をしました。

わたしが初めて観たキューブリック作品は『時計じかけのオレンジ』。なかなか寝付けない夜にこの作品を観て、興奮が覚めやらずにむしろ目がぱっちり冴えてしまったことをよく覚えてる。

思えば、『トレイン・スポッティング』や、

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パルプ・フィクション』など、

 

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わたしの好きな映画には結構バイオレンスなシーンが多いように感じる。

不謹慎に聞こえるかもしれないけれど、暴力シーンを見ている時、なんだか気分が高揚したり興奮を覚えたこと、一度はあるのではないでしょうか?わたしはある。もちろん暴力は大嫌いだけど、映像を観ていて全身の血が逆流するような感覚を感じたことは何度もある。『時計じかけのオレンジ』は、近未来のイギリスの管理社会を描いた映画で、この作品でも主人公のアレックスやその仲間「ドルーグ」たちによって、残忍な暴力描写が多く繰り広げられている。

それでは映画において、暴力表現はどのような効果を果たしているのだろう?

 

時計じかけのオレンジ』において、アレックスたちはホームレスへ暴力をふるい、ライバルの不良少年たちとの喧嘩、政治作家の家を襲撃し、作家に暴力を振るった上にその目の前で妻をレイプするなど、残忍なバイオレンスを繰り返す。

時計じかけのオレンジ』でおそらく最も有名なのは、アレグザンダー夫妻への暴行シーンだろう。このシーンで、アレックスはミュージカル『雨に唄えば』のタイトルソングを歌いながら暴行を繰り広げる。

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バイオレンスと音楽の組み合わせは他のシーンにもみられる。

アレックスが刑務所で暴力への嫌悪療法を受けるシーンでは、その恐ろしい映像とともにヴェートーベンの音楽を流す。

このように、『時計じかけのオレンジ』では、暴力といったネガティブな描写には到底そぐわないような楽しげで明るい音楽が使用されている。

次に、バイオレンスシーンで使われている技法について。

キューブリックは作中の暴力シーンにおいて、「スローモーション」と「コマ落とし」というテクニックを使用している。たとえば、アレックスがドルーグたちと戦うシーンでは、スローモーションでなければ14秒で終わるシーンを1秒2コマで撮影し、スクリーンでは約40秒に引き伸ばされている。

 

芸術と暴力の関係を考えるにあたって、先人の言葉を引用してみようと思う。

アリストテレスは、

「恐怖や哀れみといった感情は悲劇的な演劇を見ることによって浄化される」

と説き、「芸術はカタルシスをもたらす」 と考えた。

ジグムント・フロイトはこの考えを発展させ、

「わたしたちはトラウマ的感情を抑圧する傾向があり、また悲劇はそうした感情を解放するため、わたしたちは悲劇を楽しむのだ」 と論じた。

 

キューブリックは本作について、

「私は暴力を様式化すると共に、できるだけバレエのようにする方法を見つけたかった」 と語っている。

また、暴力シーンにおけるスローモーションの使用については、

「スローにして浮いているような優雅な動きにしたかった」と述べている。

こうしたスローモーションや、残酷な内容にそぐわないような音楽を使うことによって、彼は暴力表現の露骨さと衝撃を軽減しようと試みたのだ。

つまりわたしたちは、こうしたリアルさを排した暴力表現を見ることによって、実際の恐怖からは距離をとった状態で、日常で抑圧された悲劇的な感情を解放している といえる。

さらにキューブリックは本作について、

「暴力に対する我々の関心は、我々が原始時代の先祖と潜在意識のレヴェルでは少しも変わっていないということを、ある程度反映している」

「このストーリーはサタイア的なものだ」

と述べており、この映画は残忍な社会に対する風刺であるといえるだろう。わたしたちは、こうした暴力表現を見ることによって、非人道的な行為が起こりうる現実を思い出し、その思考が前向きな社会的価値に貢献すると考えられるのではないか?

映画における暴力表現は犯罪につながるといった意見ももちろん存在するし、それも事実。しかし、「暴力描写=不謹慎」という概念が揺るぎない通説となっていて、議論もされないような風潮は本当に良いものなのでしょうか...?

暴力にはネガティブな影響だけでなく、ポジティブな影響も備えうるのだということを声を大にして言いたいのです...!