ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』

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ミランダ・ジュライアメリカ生まれの映画監督で、わたしは彼女の『ザ・フューチャー』という映画が大好きだ。

この映画の登場人物は皆へんてこで寂しくて不安定で、そして愛おしい。彼女の小説集『いちばんここに似合う人』に出てくる登場人物も、映画と同じく一風変わっていて、不器用な人ばかりである。

 

彼女ら/彼らは、オリジナルのへんてこな妄想を大いに膨らませ、それを現実の行動に移すことさえある。「水泳チーム」の主人公は水を張った洗面桶で老人たちに水泳を教え、「マジェスティ」では中年女性が英国皇太子は自分に恋をしていると思い込んで奇行に走る。

また、主人公たちはひねくれた自我を持ち、爆発するかしないかの瀬戸際でぎりぎり形を保っているように見える。彼女ら/彼らは常に満たされない思いを抱え、他人とのつながりを求めているが、きちんと報われることは少ない。

みんなこの世界で自分は一人ぼっちで、自分以外は全員がすごく愛し合っているような気がしているけど、でもそうじゃない。本当はみんな、お互いのことなんか大して好きじゃないのだ。

という台詞にはそれがよく現れている。

わたしがこうした主人公に愛おしさを感じずにはいられないのは、“彼女ら/彼ら”に“わたし”の一部を見い出すことができるからだろう。主人公たちの妄想や自我は、わたしが普段ふたをしているような気持ちを思い起こさせ、まるで昔の自分を見ているように気恥ずかしく、懐かしい気分にさせられる。

だからこそ、その主人公が自分の、そして他人の呪縛から解かれ自由になる瞬間、わたしはまるで自分のことのように嬉しくなる。ありのままの自分でよいのだと、元気付けられる。

 

 さらに、この作品は「不在」の物語でもある。

架空の女性との恋に落ちたり、いなくなってしまったパートナーに想いを馳せたりと、見えない何かやもうここにはいない誰かの存在を巡るストーリーが多くある。

この作品を読むと、何かがない・誰かがいないという不在によって、むしろその存在を確かに感じるということに気づかされる。

会えないということの中に、逆にはっきりとした彼女を感じるようになった。

という一節には、その通りだと大きく頷きたくなった。

 

わたしが最も好きな「2003年のメイク・ラブ」は、この小説集の中でもとりわけ寂しく、美しい作品だ。

この作品では、主人公が実体のない“黒い影”と触れ合い、会話をし、恋に落ちる。主人公はこの黒い影に実際に触れたり、目に見えるわけではないのだが、〈彼の目とわたしの目は手と手のようにしっかりと結びついていた〉など、その描写からは二人の情景がありありと浮かび、一方の実体はないのにもかかわらず非常にリアルである。

のちに特殊な関係に嫌気がさした主人公を見て、黒い影が泣いた時の

実体のないものは、人間には真似のできない、信じられないくらい悲しげな泣き方をするのだとそのとき知った

という、とびきり悲しげで美しい台詞が印象的で頭から離れない。

 

 この小説はどこまでも孤独で、寂しさを突きつけるようなひりひりとした痛みがあるが、読み終える頃には不思議と優しい気持ちになっている。

それは『いちばんここに似合う人』というタイトルからも分かるように、どんなに孤独な人にでも必ず居場所があり、居場所がないと感じる人はその場所を見つける通過点にいるだけなのだと、物語全体が語りかけているからであろう。

そして孤独な人にこそ分かる痛みがあり、その分人を好きになれたり、気にかけることができる。

 

これから寂しさを感じた時には、きっとこの本のことを思い出す。そしてありのままの自分を受け止めてくれるどこかを想って、その日はいつもより優しく生きてみようと思う。